『僕だけがいない街』アニメ版、映画版、Netflixドラマ版、原作漫画。全部見た感想

Netflix
!ネタバレ有りの感想です!

アニメ版、映画版、Netflixドラマ版、そしてもちろん原作漫画も全部見たのでひっくるめて感想を残しておこうと思う。

『僕だけがいない街』

・テレビアニメ版(2016.1〜2016.3)

監督 : 伊藤智彦
シリーズ構成 : 岸本卓
Netflix作品ページ

・映画版(2016.3)

監督 : 平川雄一朗
脚本 : 後藤法子
Netflix作品ページ

・Netflixドラマ版(2017.12)

監督 : 下山天
脚本 : 大久保ともみ
Netflix作品ページ

あらすじ

売れない 漫画家 ・藤沼悟は、「再上映( リバイバル )」と呼んでいる特殊能力を持っていた。その能力は、直後に起こる「悪いこと(事件・事故等)」の原因が取り除かれるまで、その直前の場面に何度も タイムリープ してしまうというものだった。
ある日、アルバイトでピザの配達中に交通事故をめぐるリバイバルを経験した悟は、事故の被害は減らせたが自身は負傷し、二日間入院することになる。これを機会に、ピザ屋で一緒にアルバイトをしていて、見舞いに来てくれた愛梨と親しくなり、また事故の知らせを受けて上京した母親・佐知子とアパートで暮らし始めることになる。
後日、佐知子との買い物中にリバイバルが発生、このとき子連れの男の挙動に注目した佐知子は誘拐を未然に防いだことを確信し、同時に 1988年に北海道で起きた誘拐殺人事件の真犯人と同一犯であることにも気付いた。しかし、真犯人も気づかれたことを察知し、正体を伝えられる前に佐知子を殺害、死体の発見者である悟を犯人に仕立て上げる。悟は死体を発見後、リバイバルで殺害を阻止できないかと試みるが失敗。さらに強く念じたところ、それまで経験したことがない長期間のタイムリープが発生し、1988年にいることに気づく。 2006年で母親を殺害した犯人と1988年の連続誘拐殺人事件が同一人物であると確信した悟は、2つの時代を往復しながら真犯人に立ち向かっていく。Wikipedia

感想

Netflixのドラマ版がさいこうだった。
漫画、アニメ、ゲーム、小説などなど…原作アリの映像化作品はぜひこうやって作って欲しい。
原作のある映像化作品はどうしても、原作の好きなところ、良かったところをきちんと映像化して欲しい!という思いの上での視聴になるので評価が低くなりがちである。
どんなにうまく作っても、”原作ファン”からすると粗や綻び、文句を付けたくなる所が出てくるもんだろう。

他の原作有りの映像化作品の事情はあまり詳しくないが、3度に渡る映像化は珍しいであろう、『僕だけがいない街』。
各版ともラストが全く異なるところがおもしろい。
基本のストーリーラインは漫画家を目指す主人公、悟にはリバイバルという一定期間をループする能力を持っていて、過去最大のリバイバル、小学生に戻って連続誘拐殺人犯から同級生を守り、母親を救う、という部分は全てに共通している。

それぞれのラスト

肝心なそれぞれのラストから比較したい。

アニメ版、映画版ともに漫画が未完結の状態での製作だったためにラストがオリジナルのものになっている。

アニメ版は病院で出会った少女、くみちゃんとのキャンプをまるっと無しにして、記憶を取り戻した悟と八代が病院の屋上での一騎打ちになる。そしてケンヤたち、同級生の助けを得て悟が八代に打ち勝つラストだ。

映画版は小学生時代のリバイバル後、悟は昏睡せずに現在へと戻り八代と対決する。そして八代に切りつけられて悟が死ぬ、というラストだ。これが納得がいかない。

wikiによれば

製作陣の「悲劇でもいいんじゃないか」と言う考えにより、ハッピーエンドであった原作・アニメとは全く違う結末を迎える。

とのことだか、、、「悲劇でも…」云々ではなく、タイトルの『僕だけがいない街』の意味合いが異なってしまったことが悲しい。
『僕だけがいない街』の街というのは苫小牧のことだ。リバイバルで同級生の少年少女たちを犯人・八代から救い、その代償として小学生〜成人するまでの期間を昏睡で失った悟。少年時代の悟=僕、だけがいない、他のみんなが生きて過ごすことができた苫小牧の街、が僕だけがいない街、なのである。
これが映画のラストでは八代に殺された、僕だけがいなくなった街。しかも千葉。になってしまうのである。

尺の問題やら何やら…色々と都合はあると思うので改変自体を悪と言う気はない。しかし、原作のあるものを映像化する上で変えてはいけない場所、この作品では、タイトルの意味はそれじゃないだろうか?

アニメ版のラストも改変はされていたが、このタイトルの意味合いは原作通りだったので納得できた。

そしてNetflix版。漫画→アニメ→映画→Netflixという順番で見ていて、アニメとも映画とも違う結末をという記事も読んでいたので、どんなラストを見せてくれるのかとても楽しみだった。そしててっきりオリジナルのラストをもってくるものだと思っていた。
結果はなんと、ほぼ原作通り。細かい改変はあるものの、原作のラストをしっかりと映像化してくれた!よかった…本当に良かった…。

北海道という舞台

北海道という土地には縁とゆかりがあるので、ちょっとこれも語っておきたい。
僕だけがいない街は、北海道と千葉が舞台である。
主人公・悟が少年時代を過ごしたのは北海道の苫小牧という街。
そこから上京(千葉も上京に当たるかは微妙だが)し、大人の悟の生活は千葉で描かれる。

そのため、全作品に出てくるのが北海道弁。
悟の母、同級生、が千葉にいても北海道弁を使うのだが、これが…耳に障る(笑)
三作ともちょっとやりすぎ、なのだ。Netflix版が1番マシだったかな…。アニメ版は1番やり過ぎ感が強くて…、使い方が間違っているわけではないのだが、あんなに使わないよな?といった感じ。まあ、些末なことなのだけど、見ていてそこに気をとられる。

苫小牧の街について。アニメ版はかなり忠実に描かれていた。Netflix版も苫小牧でロケしたとだけあって見覚えのある苫小牧の街でした。映画版は…北海道ですらない気がします(笑)
低い建物が多い街の奥に見えるたかーい工場の煙突。そこからもくもくと上がる煙。あの絵面にぐっと来た人は一度訪れてほしいですね。なんもないけど。

周りの登場人物の描かれ方

そこには私は拘りがなかったので三者三様でおもしろかった。
犯人・八代学に関して、アニメ版は原作に忠実にハムスターや蜘蛛の糸のくだりから八代学がなぜ少年少女連続殺人犯になったかが描かれているし、Netflix版はそこはコンパクトに兄との確執にだけ割り切って描かれていた。
同級生の扱いも三者三様で、映画版のケンヤはフリージャーナリストの澤田さんとは組まないし、悟とも仲の良かった同級生程度。アニメ版は一番子供時代の同級生達を描いていて、雛月かよの文集が一番効いている。Netflix版はケンヤとの友情にだいぶ重きが置かれている印象。
同じ原作の映像化でもここまで違うかというほど、それぞれの取捨選択が見て取れる。この取捨選択が、自身の作品に対する重視する部分・面白いと思った部分と一致すれば、好きな原作の映像化作品もかなり高評価で観れるのだろう。

エピローグに割く量もかなり差があり、Netflix版は他とは違い最終話の半分近く使って登場人物それぞれのその後を描いている。そこもNetflix版が良かった点だ。

さいごに

トータルすると、Netflixドラマ版>>>アニメ版>>>超えられない壁>>>映画版
といった評価である。

原作が面白かった人にはぜひ、Netflix版とアニメ版を見てほしい。
私は特に原作の悟が昏睡するまでが、むちゃくちゃ面白かったので、その面白さでいうならアニメ版の方が濃いのでオススメしたいし、作品全体が好きならNetflix版をオススメしたい。

Netflixには映画版、アニメ版、ドラマ版、全部そろってるので、三種制覇するのも原作漫画の映像化が如何に製作陣によって変わるか、がわかって面白いと思う。

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